Ein Notizbuch 2

人々の言葉を記録し、引き継ぐためのブログ
 
ペギダとは何か?なぜペギダなのか? 12
現在、政治に幻滅している者の数は増大しているように思われる。一方で、増え続ける棄権者セグメントに、再び見い出すことのできるポテンシャルがある。他方で、ソーシャルメディアや、時には、政治的アドホック・イニシアティブの中にも、憤慨を公的に表明するチャンスを掴もうとするポテンシャルがある。この、とりわけ「中道右派」に位置づけられるポテンシャルは(訳者注:ペギダのこと)、イデオロギーによって裏付られた運動、あるいは、カリスマ的な「民衆煽動者」によって、 常に政治的に活性化される可能性を孕んでいる。政治的空間で、かつ路上で、不安にかられた市民と、過激な勢力と、今のところはまだ、憤慨と、息を潜めて待機中の暴力の中でしか身動きのとれない例のフォロワーたちの間に、新しい信頼関係が作られるかもしれない。ドイツの民主主義は、本格的なストレステストの前に立っているように見える。


フォアレンダー氏の論考終わり。

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カッコ付きで書かれている  "Volkstribunen" は、(ローマの)「護民官」に当たるドイツ語だが、Tribun だけだと「煽動者」という訳語もある。本文ではこちらを採って、「民衆煽動者」と訳した。一応、「護民官」をWikipediaで調べてみた。簡単にまとめると、平民(民衆)の側に立った、圧倒的権力を持ったリーダー、ということだろうか。

Volkstribun:(ローマの)護民官、この官職は、平民(プレブス、プレプス)を保護する目的で創設された古代ローマの公職のこと。

ローマの拡大に伴い貴族(パトリキ)とプレブスの間の貧富の差が広がると、紀元前494年にプレブス達はモンテ・サクロ(聖山)に立て篭もり、自分達の政治的発言力の強化を求めた。聖山事件と呼ばれるこの事件において、プレブス側はそれまでのローマの政治体制を拒否し、立て篭もった山で自分達を中心とした新たな国家を樹立する動きまで見せた。プレブス側はトリブヌス・プレビス、直訳すると「プレブス身分のトリブヌス(三族の長)」と呼ばれる代表を選び、その元で結束し、彼らの身体を不可侵とすることを神に誓った。これに対して日本語では「護民官」の訳語が与えられている。平民国家の代表である護民官は、当時のパトリキ国家の代表である執政官(コンスル)と対応して2名が選ばれ、同様に民会に対応して、平民のみで構成された平民会が議決機関として設置された。

こうしたプレブス側の行動に対して、パトリキ側も妥協せざるを得ず、平民会を正規の民会として認めるのみならず、プレブス達が勝手に選出した護民官についても国家の官職とし、さらにプレブス達によって誓われていた護民官の神聖不可侵をも承認した。こうしてローマの既存国家体制に組み込まれた護民官は、プレブスの保護をその任務とし、そのための職権としてほとんどの決定に対する拒否権が与えられた。

Wikipedia より。


| Till*eulenspiegel | ドイツ- Pegida | 00:50 | comments(0) | trackbacks(0) |
ペギダとは何か?なぜペギダなのか? 11
このような自己確認の物語によって、ドレスデンの教養ある市民層の多数は、
--- 彼らはテルカンプの小説『塔』の中で、文学で永遠化された --- SEDドイツ社会主義統一党体制に対して、免疫を持つことができた。と同時に、DDR時代もずっと生き残ってきた、ノスタルジックな美化というコクーンの中へ閉じこもって繭を作り続けてきた。ドレスデン特有の保守主義はこのような振る舞いを食べて栄養としている。この保守主義は、自分たちの文化、伝統そしてアイデンティティを強調し、守ることにだけ義務付けられているようには見えない。この保守主義を味方につけて、推測にしかすぎない危険、あるいは、この「無傷な世界のノスタルジア」を脅かすものに、強力な防衛反射というべき運動体が悠然と立ち向かってゆく。グローバリゼーション、イスラムのテロ、そして膨大な移民・難民行動の、正しく現下の帰結は、正常さ、安定性そして安全性を保ったこの状態を脅かす、言い換えれば、過去数十年に及んだ、深刻な所得記録、社会経済、および人口統計の大変革の後に、ようやく再び到来したこの状態を脅かすものだと解釈される。

ペギダはザクセンを揺さぶり、ドレスデンを引き裂いた。長い間、共和国の成功の歴史によって覆い隠されてきた緊張と軋轢がはっきりと目に見えるようになった。ドレスデンの市民社会は、政治的関心を呼び覚まされ、静観主義や無力状態にとどまらないで、旗幟鮮明にするよう求められているように思われる。ペギダは「道化芝居」をはるかにしのぐものである。この運動は、ここ数年のうちに、移民社会におけるアイデンティティをめぐる政治的文化的軋轢と意味付けの戦いの前触れと意味づけられることになるかもしれない。ルサンチマン構造は、ペギダとは無関係に広く存在するだろうし、政治的に影響を及ぼし続けるだろう。

基本的に、民主主義的秩序にあって、ポピュリズムを充電した憤慨運動の役割というのは、矛盾を内蔵したものと評価される。憤慨運動というのは、民主主義の脅威とも、あるいは、民主主義の退化の兆候とも解釈される。なぜなら、憤慨運動は、民主主義的秩序への病的な関係にあるからである。しかしながら、この運動はまた、大衆の関与による民主主義の政治的約束を果たすための、民主主義への要請とも理解される。

| Till*eulenspiegel | ドイツ- Pegida | 14:06 | comments(0) | trackbacks(0) |
ペギダとは何か?なぜペギダなのか? 10
もし、誰かが、ドレスデンで、というよりむしろザクセンでペギダが生れ、持続していることについて、挙げられる局地的また地域的な特徴は何かと尋ねるなら、関連し合う政治的および文化的な二つの説明が思い浮かぶ。その1つは、ザクセンが強固な自意識と伝統意識という点で際立っているということである。政治的独自性を持つ長い歴史、芸術と(宮廷の)綺羅びやかな発展と技術の「発明の精神」が一体となった、いわゆるザクセンの「輝き」という伝統が、その特徴として挙げられる。これを土台にして、集団的自己中心性と強情、と表現される「地元民の団結」が栄えてきたのだ。この自己認識は、DDR時代にも守られ続けた。1990年以降の社会経済崩壊の困難な年月の間、例外なくCDUによって導かれてきた政府はこの規範を受け継ぐものだった。すなわち、我々は、東ドイツにおける経済的、社会的、そして文化的発展の先駆者となるべき誇り高き者たちだ、という規範である。

「外国人」、同じく「馴染みがない」と感じる政治的エリート、またメディアエリートに対する敵対的な考え方を集団で、しかも公の場で饒舌に言葉に載せる態勢がどうやらできていることも、とりわけ、大ぴらに大事に守られてきた民族文化的中道主義の証拠と解釈できる。「ザクセンの熱狂的国粋主義」は、自分たちのグループは過大評価し、外国人を過小評価し、現地人の特権を強烈に主張しながら、悠然と歩いてゆく。

メディア上で、ドレスデンが、あらゆるデモと呼ばれるデモを強く印象づける舞台となっているという事情を、軽く見過ごしてはならない。毎年2月13日になると、「アングロ・アメリカンの爆撃機部隊」によるこの「バロック」都市の破壊が、儀式のように、追憶の中に呼び覚まされてきたことは、ドレスデンを、ヨーロッパ中から結集したネオ・ナチたちが行進してゆく光景を映し出す舞台にさせてしまった。と同時に、ドレスデンの市民社会は、数十年以上にも渡って、常にドレスデンが自分には罪のない事情の犠牲者として描かれてきた自画像を大事に守り育ててきた。それによって、この都市のナチの過去は黙殺され、過去の都市計画の美しさや文化の輝きの再興というノスタルジックなヴィジョンが作り出されることになったのだった。

| Till*eulenspiegel | ドイツ- Pegida | 19:29 | comments(0) | trackbacks(0) |
2月20日 ザクセン州クラウズニッツ村
現在、ドイツのペギダはどうなっているかというと、2月6日に、大々的に呼びかけられて集会が行われたが、数千人しか集まらず、結局、失敗と言われるほどだった。しかし、運動は、いろいろな形で行われていると思われる。


たとへば、2月20日のフランクフルター・アルゲマイネの記事。

『クラウズニッツ村:警察は難民にも罪はあると見る』

http://www.faz.net/aktuell/politik/fluechtlingskrise/clausnitz-polizei-verteidigt-einsatz-von-zwang-gegen-fluechtlinge-14081286.html#GEPC;s2


「クラウズニッツ村の難民収容施設を目の前にして起こった騒動で、警察が複数(3人)の難民に激しく掴みかかった。警察は、当然のことと発表。」

クラウズニッツ村は、Pegida 運動が生まれたザクセン州のチェコとの国境に近いエルツ山脈の村。難民家族を乗せたバスが施設前に到着したところ、多数の人々(警察は、これらが村民ではなく、他の地域から来た、と分析している)が大声を挙げながらブロック、そこへ連邦警察官と、管轄するツヴィッカウの警察官30人が出動。

ケムニッツ署長ウーヴェ・ライスマン氏は、「今回の警察の出動は当然。無造作に直に強制したのも、難民をバスから施設へと移動させるための必然のもの。」と語ったという。しかし、動画があり、それを見ると、警察が少年と思われる難民の一人を、あたかも襲うように、バスからひきずりおろすように見える。

タイトルを訳しかねていて、様々に情報収集した結果、訂正した。全く反対の意味になってしまい、反省中。なお、「無造作に直に強制した」という部分は、昨日は単に「暴力」と訳していたのだが、警察署長のこの言葉は、各媒体で取り上げられており、慎重を期すべきと思い、訳し直した。


原文は、

Der Chemnitzer Polizeipräsident Uwe Reißmann sagte am Samstag bei drei Flüchtlingen sei der Einsatz von "einfachem unmittelbaren Zwang" notwendig gewesen.

Spiegel Online では、なぜレポーターがそこにいて、Videoを撮っていたのか、という疑問提起がなされている。また、facebook でこの時刻に15人の難民を乗せたバスが来ることも広まり、約100人のデモ参加者が集まっていた、ということだ。また、難民の少年が中指で抵抗を示し、警察を挑発した、という。

アメリカで警察官がアフリカ系アメリカ人の人々に対し暴力をふるっている。同様のことが、ドイツで、難民に対してないように、これ以上のことがないように、願うばかりだ。なお、その後のニュースでは、同じザクセン州のバウツェン村の難民収容施設の屋根が放火された、とも報じられている。もちろん、バスを取り囲んだ人々がペギダだと発表されたわけではない。

なお付け加えると、ブロックした人々が大声で叫んでいた言葉は、

Wir sind das Volk. (We are the people.) 我々が民衆だ。

1989年に平和革命を成し遂げた時に人々が口にした言葉。彼らが、難民を前にして、なぜこの言葉を叫ぶのか。実はこのスローガンは、現在ペギダのスローガンでもあると、Wikipedia には載っている。

参考までに。クラウズニッツ村騒動についての主な報道は以下の通り。

Spiegel Online

http://www.spiegel.de/politik/deutschland/clausnitz-und-die-attacke-auf-fluechtlinge-jetzt-will-es-keiner-gewesen-sein-a-1078492.html

Zeit Online   "Die Sächsische Illusion" 『ザクセンの幻想』

http://www.zeit.de/gesellschaft/zeitgeschehen/2016-02/sachsen-clausnitz-demokratie

これは記事ではなく、上記のタイトルを持つ、2月22日 Christian Bangel 氏の名前入論考。現時点で、1,156件のコメントが寄せられている。

| Till*eulenspiegel | ドイツ- Pegida | 00:01 | comments(0) | trackbacks(0) |
ペギダとは何か?なぜペギダなのか? 9
ドレスデン、というより、ザクセン州で、ペギダが特に成果を出したのはなぜなのかという問に対しては、繰り返し繰り返し、とりわけ顕著な反外国人と反イスラムに関する推察で、答えとされてきた。それは不思議なことではない。なぜなら、スピーチ担当者たちは、自分たちがイスラム教とイスラム教信者をひっくるめて拒否するということに、何の懐疑も持っていなかったからである。しかしながら、「イスラム教」、なかんずく、「イスラム化」というテーマが、さしあたり抵抗の中心的な動機ではなく、支持者動員の主要素でもないことが分かってきた。そればかりか、反イスラムに関して、デモ参加者たちは、全住民の平均的な思考規範と全く違っていなかったのである。

西ドイツでは、反イスラム的考え方は、多くの場合、日常の感覚によって刻み込まれている。ドレスデンのペギダの反イスラムというのは、始めはむしろ漠然とあっただけで、押し寄せる異文化の影響が過度に及ぶのではという抽象的な観念から噴出したものだった。イスラム教信者は、見知らぬ人、新参者、いわゆる、他者全体、の拒絶を映し出すスクリーン上で彼らを代表する者として使われたのだ。とにかく、危惧の念というものが、難民危機の様子を見て具体化していると思われるのである。ペギダの支持者たちは、彼らの認識では、自分たちは正しいと感じており、「我々がそのことをこれまで常に言ってきたんだ」というポーズで自らの行動の果実を収穫することができる。反抗的な「ザクセンが、どうなるか思い知らせる」という言葉は、舵取りのいない移住問題に対する単なる抵抗原則となっているだけではない。同時にそれは、誇るべき、特別な「ザクセン的展望」の表現と見なされているのである。

算出し確定された反外国人ペギダデモ参加者たちの規模は、これまでの長期研究で東ドイツに関し定期的に測られてきたレベルと合致した。実証結果はまた、ザクセンの州都(ドレスデン)とその周辺地域の住民が、その他の地域と同程度に反外国人的ではないことを示した。このため、一般的に東ザクセンが反外国人的行動の動機の理想的な温床である、という見方の論拠を示すことはできない。にもかかわらず、正にこのザクセンで、反外国人の暴力行為は激しく増加していった。間違いなく、ペギダは、ここで、政治文化の野蛮化に貢献してきたのだ。加えてザクセンは、長い年月、よく組織された、強固な極右的光景を温存してきているため、路上での、レトリックな開放と、物理的な開放との境界はぼやけさだかでなくなりつつある。


| Till*eulenspiegel | ドイツ- Pegida | 18:21 | comments(0) | trackbacks(0) |
ペギダ:ベルリン大司教の警告
フランクフルター・アルゲマイネに、次のような記事が掲載されました。

facebook でリンクと共に載せた記事

http://www.faz.net/aktuell/politik/inland/berliner-erzbischof-warnt-vor-entwicklungen-um-pegida-14070981.html#GEPC;s2


フランクフルター・アルゲマイネ 2月15日版

『ペギダ:ベルリン大司教があたかも「第三帝国」のようなペギダの運動の進展に対し警告』

「社会の空気が、まるで「第三帝国」の時のように進んでいる、とベルリンの大司教ハイナー・コッホ氏が語った。コッホ氏は、ペギダ支持者たちと、徹底して関わるよう求めた。--- ベルリンに赴任する前、ドレスデンの司教だったコッホ氏は、ドレスデンのペギダ支持者たちとの対話を模索していた。」


全文は以下の通り。太字はコッホ氏の言葉。


ベルリン大司教ハイナー・コッホ氏は、外国人排斥のペギダ運動について、あたかも、ナチ運動の進展のようだと警告した。

私は、「第三帝国」で起こった運動の広がりがまだ阻止可能だった時に、人々が反応するのが遅すぎた、あるいはまた、十分にそれに反応しなかったと、考えている。 

と、カトリックの司教は、「ドイツの編集者ネット」に対し語った。

ナチが再び起こってはならない。

コッホ氏は、ペギダ支持者たちとは徹底して関わることが必要だと求めた。

私たちが越えようとしない境界とはどこにあるのか、誤解の怖れのないように、疑問の余地のないように語る、慈悲に満ちた言葉があるはずだ。それは、一人一人の人間の尊厳を思った言葉、難民の尊厳をも思った言葉であるはずだ。

ベルリンの勤務先に足を踏み入れるに際し、これまでドレスデンの司教だったコッホ氏が語った。

当初、ザクセン州のプロテスタント司教とコッホ氏とは、ペギダの代表者たちとの対話を模索した。

しかし、2015年ムードが先鋭化した。相互理解という意味でのコミュニケーションはもはや不可能だった。

この社会で共同生活を営む中での、すべての人々に、いかなる傾向を持った急進者にも、彼らのスピーチと行動に対する限界を示すよう求められている、ということだろう。

| Till*eulenspiegel | ドイツ- Pegida | 10:35 | - | - |
国会-衆議院予算委員会 2月15日 「内心の自由」
山尾議員:私は、憲法21条、表現の自由、これに対する総理の認識を問うている。総理が憲法21条分かっているかどうか、国民の皆さんの前で説明していただきたいと思っている。
---前回大串議員に、表現の自由の優越的地位とは何かと尋ねられた。総理は、表現の自由は最も大切な権利であり、民主主義を担保するものであり、自由の証しという、咬み合わない謎の答弁をされた。法律の話をしていて、自由の証しという言葉を私は聞いたことがない。もう一度尋ねます。優越的地位とは、どういう意味ですか?

山尾議員:総理は知らなかったからごまかしたのか、知っていて勘違いしたのか、知りたい。表現の自由の優越的地位ってなんですか?

安倍首相:経済的自由、精神的自由よりも優越をするという意味において表現の自由が重視されている、ということでございます。

山尾議員:なぜ精神的自由は経済的自由に優越するのですか?優越的地位ということは何をもたらすのか?

安倍首相:表現の自由が優越的であるということについてはですね、これはまさにですね、経済的自由よりも表現の自由が優越されるということであり、表現の自由が優越しているということでございますが、いずれにせよ、それを今この予算委員会で、私にクイズのように聞くこと自体が、意味が無いじゃないですか。-----

山尾議員:もう一度おうかがいします。精神的自由が経済的自由より優越される理由、優越されるから優越されるでは、理由になっていない。これが分からなければ、大変心配です。もう一度お答えください。

安倍首相:「内心の自由」、思想、考え方の自由を我々は持っているのでございます。

山尾議員:なぜ「内心の自由」や、それを発露する表現の自由が経済的自由よりも優越的地位にあるのか、それは憲法の最初に習う、キホンのキ。経済的自由は、大変重要な権利ですけれども、国がおかしいことをすれば、選挙を通じてこれを直すことができる。でも、精神的自由、特に「内心の自由」はそもそも選挙の前提となる、国民の知る権利が阻害されるから、選挙で直すことができないから、優越的な地位にある。これが憲法で最初に習うことです。それも知らずに、言論の自由を最も大切にする安倍政権だと胸を張るのは、やめていただきたい。


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「内心の自由」という、憲法を学んでいない私は、恥ずかしいが初めて聞いた言葉だった。初めてだったが、この言葉と意味の重要性を非常によく理解し、学ぶことができた。追求のレベルの高さにグーの音も出ない議場安倍政権だった。

| Till*eulenspiegel | 日本-Japan | 10:50 | comments(0) | trackbacks(0) |
ペギダとは何か?なぜペギダなのか? 8
従って、ペギダには、過去25年の間に生じはしたが、これまではほとんど可視化していなかった、東西の断絶も反映されているのである。実証結果では、確かに、東西のドイツ人の、政治的かつ文化的考えの様々な側面はほとんど違わない。これらの側面は、民主主義という理念のための一般的な一致点として重要な意味を持つ。しかし、この民主主義が果たして本当に上手く機能しているかどうなのか、という点で、両側の見解は常に異なっている。ペギダの参加者の中には、日々の民主主義への強い不満があるのだ。

1つには、彼らは、連邦ドイツの、メディアによって媒介されるディスカッション文化に慣れ親しみを感じず、政治的諸機関を「自分たちのもの」ではなく、「西側によってすっぽり被せられた見せかけの民主主義」の道具と感じてしまう。従って、この「システム」にのっとった代議士たちも、意思決定プロセスも、「固いかさぶたのようであり」、「眩惑するようであり」、あるいはまた「腐敗している」とも思えて、DDR 旧東ドイツへの漠然とした追憶を呼び覚ましてしまう。また1つには、もっと直接的な民主主義の到来が呼びかけられてもいる。すなわち、そこでは、「素朴な市民」が発言権を持ち、政治家たちは、無力で、従属的で、直々に釈明しなければならない「民衆の意志の雇われ者」として行動するというわけである。

このような「野卑な民主主義」(エルンスト・フレンケル)という立場は、政治的意見形成と意思決定プロセスの、複雑性も時間的徹底性も妥協の必要性も否定する。「純粋な」民衆意志の達成、すなわち直接性から生まれた住民投票という手法が、救済策を作り出すはずだ、というわけである。政治的プロセスは、「正しいか誤りか」、「原因と影響」、あるいは「問題と解決」という厳しい二者対立によって評価される。「分配しないものは解雇だ」、このようにペギダの支持者の一人は言う。民衆が代議士を解雇するというわけだ。

| Till*eulenspiegel | ドイツ- Pegida | 17:59 | comments(0) | trackbacks(0) |
ペギダとは何か?なぜペギダなのか? 7
同様に徹底的な変化が、体制側民主主義の諸機関に起こっている。これらの諸機関は、今日、メディアが何に注目するかに盛んに順応し、現下の展開に「リアルタイムで」答えるように努めなければならない。こうして、次のような1つの政治的状況が生まれている。関係者たちが互いに対して免疫状態になっているだけでなく、それ以上に互いに疎遠になっているという状況である。つまり、こちら側にいるのが、体制側政治で起こったことがらを、原則として拒絶するソーシャルメディアであり、他方、向こう側にいるのが、「インターネットコミュニティ」の中の混沌状況によってもそれ程強く影響を受けずに済んでいる政治である。このため政治は相変わらずある程度合理的で政治的な決断のプロセスが可能な状況にある、というわけである。

従って、ペギダは「目下機能中のエリートたちの民主主義」に対する抵抗と解釈できるだろう。言い換えれば、次のような政治的秩序に対する反対勢力と解釈できるだろう。つまり、経済的権力と、国家および政権を司る機能を操作するエリートたちが、政治的決断のグランドデザインを描くと同時に、市民たちが主張するものから、ないしは市民たちにとって依然として民主主義的かつ正統的なことと思われていることから遠ざかってしまっているということである。

市民と代議政治が信頼関係で互いに結ばれる基盤、つまり機能的な代議制システムが持つあの両側合同提議は、失われてしまっている。複雑化した、構造、諸機関および手続きからなる体制側代議制民主主義には、ほとんど見通すことのできない帰結が待つばかりという状態だ。

東ドイツでは、すでに一度、生活条件を後々まで尾を引くほど変えることになった、あの転換期の影響が、過去二十年以上にわたって残っているため、民主的システムのこのような変容の帰結が、一層強められているのである。1989年の平和革命の只中で、一部に、民主的決断到達プロセスを強力に単純化した考えが生まれ、一部ではまた、新しい自由民主主義的システムに対する当然の期待が生まれた。これらの期待は、社会的、および経済的奪取の経験という背景もあって、次第に、激しい政治的幻滅モデルをもたらすこととなった。さらにこれに、ドイツ全体の政治文化を、不完全に、一部には、理解できないままに取り入れたことの帰結が加わる。多くのペギダデモ参加者から見れば、この政治文化は、依然として、典型的に西ドイツの、追憶の場所であり、経験の地平線であり、また解釈のパラダイム(理論的枠組)に沿ったものと定義される。集団的な疎外感情、特に自身の生を意味付ける主権の喪失は、今日もなお、新たなオピニオンリーダーや政治エリートによって、文化およびコミュニケーションの没収と記述されているのである。ペギダにおいて、攻撃的な言葉で表現される、あのルサンチマンを充電したエリート排外主義こそが、ペギダという出来事なのだ。


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ペギダがドレスデンで起こったことは必然、東西ドイツの関係で起こるべくして起こったという、フォアレンダー氏の分析です。

Dr. ハンス・フォアレンダー氏の分析はまだまだ続きます。

| Till*eulenspiegel | ドイツ- Pegida | 16:11 | comments(0) | trackbacks(0) |
大阪・釜ヶ崎での樋口健二氏の講演会
7日は、大阪釜ヶ崎で日本の産業奴隷とも言える、原発労働者についての樋口健二氏の講演会があり、参加してきました。2年前、ネットで初めて樋口氏の講演の動画を見て、非常なショックを受けて、脱原発への思いを固く誓ったのを思い出しながら、最前列で、80歳になられる樋口氏の力強いメッセージ---「原発で働くなと言ってくれ。これは原発公害だ。」--- を受け取ってきました。『毒ガスの島』(大久野島)絶版になっていたこの写真集が昨年再発行されて購入、また、写真集『原発崩壊』はあっという間に売り切れてしまいました。座りきれない人々を、座布団を敷いて、最前列に座るよう誘い、情熱的に語る樋口氏でした。最初は5〜6人しか聴衆はいなかった。嬉しい。嬉しい。と語りました。

氏の画像は、Rolling Stones Japan のサイトからいただいてきたものです。

http://www.rollingstonejapan.com/articles/detail/12626

氏の背後に掲げてある写真は、原発が日本各地に作られ始めた1970年代、氏が原発労働者の中に入って、密かに撮った労働者の実態、さしたる放射線防護服も着ることなく、放射線に晒されて働いていた実態を撮ったもの。電力会社の職員に追いかけられ、逃げまわりながら撮ったもので、実態を写した貴重な2枚の内の1枚ということです。youtube の氏の講演会で既知の画像でしたが、説明を聞き、どれ程過酷で、人権無視の現場だったかを改めて認識しました。氏は、核写真家ギルド(本部カナダ)に属する世界的な写真家です。

Rolling Stones Japan のリンク先では、樋口氏のインタビューが読めます。
是非、訪問してください。


| Till*eulenspiegel | 原発−Atomkraftwerk | 18:51 | - | - |
ペギダとは何か?なぜペギダなのか? 6
このように公に表現される憤慨の言葉は、グローバル化を批判する抵抗として生れ、シュテファン・ヘッセルのような知識階級によって、政治的にまた綱領的にも鼓舞されるなど、これまでは専ら、かつての左翼政治陣営のものと言われてきた。ペギダは世間の注目を惹くために、類似のメカニズムと象徴的な形式を踏襲したのだ。その際、ペギダの誕生の時も、頂点に達した時も、決定的な役割を果たしたのが、ソーシャルメディアだった。しかも、コミュニケーション(伝達)と組織化のヴァーチャル空間として。

しかし、ペギダが1つの運動になったのは、名だたる通りや広場を、要するにリアルな空間を、一般大衆に効き目があるように専有することを戦略とした瞬間だった。ペギダがそれを実行したから、参加者は増えたのだ。大衆運動としてのペギダのパフォーマンス的儀式、およびその式次第は一体だった。月曜日ごとに、集会と「夕べのお散歩」によって構成されているこの行事は、1つの儀式となったのだ。規則的に繰り返すことによって参加者には、同じ思いを持った人々の共同体に属しているのだ、という感情が生まれた。このような公の場で演出されることにのみ、無力感を克服し、コミュニカティブな力を獲得できる可能性が含まれていたのである。

この限りでは、ペギダは、代表民主制のシステム変更の反映と見ることもできる。一面では、民主主義のソーシャルインフラ(社会的経済基盤)の前進的解体と書き留めることもできる。政党、組合、常連客の集まる会合、諸団体は、政治的に結合し組織化し、さらに統合する性格を次第に失いつつある。恒常的な政治参加への態勢づくりも減少し、アドホック・イニシアティブ(その場その場の主導権)や、インターネット上の匿名のフォーラムコメントが、新しい活動形式になっている。今後、民主主義的な関与や参加の既成の方法は、空回りする状況が一段と差し迫っている。


| Till*eulenspiegel | ドイツ- Pegida | 17:22 | comments(0) | trackbacks(0) |
国会-予算委員会  2月3日
多忙で、『ペギダ』についての Dr. ハンス・フォアレンダー氏の論考の
後半部分を翻訳する時間がないため、ネットで予算委員会の質疑&応答を
見ながら仕事をしていた。さらっと通り過ぎようと
したが、引っかかって、どうにもならないので、Facebook にも書き、
せっかくだからブログにもメモしておこうと思う。


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2月3日 衆議院予算委員会

岡田氏「甘利氏の記者会見についてお尋ねします。----あなたは(安倍首相を指して)、安倍内閣の政策は政治献金の影響を受けることはない、と断言されました。何を根拠に断言されているか?」

安倍首相「ないからです。」

岡田氏「(甘利氏に言及し)TPP交渉など、安倍政権の司令塔として、大きな権限持ってきた甘利氏です。検証すべきではないか。」

安倍首相「週刊誌に書いてあることがTPPに影響するんですか?影響するはずないじゃありませんか。」

岡田氏「週刊誌の報道について言っているのではない。巨大な権限を持った人が疑いをかけられていることに危機感を持ち、検証すべきではないか。そんなことはないということを確認すべきではないか。」

安倍首相「影響が出てるというなら、具体的に言ってくださいよ。ないからないと言っている。具体的にどの品目に影響が出ているか、言わないなら、それはただの誹謗中傷だ。------言いがかりをされても答えようがない。」

岡田氏「あなたが、政治献金で影響を受けることはないと断言されたから言っている。その根拠を示す必要があるのはあなたの方だ。」

安倍首相「私は、無いと言い切りましたよ。しかし、無いことを無いと証明するのは悪魔の証明なんですよ。あると言うなら、あると言う方が立証責任があるんですよ。当たり前じゃないですか。無いものについては、無いと言うしか無いじゃありませんか。1つでも具体的なこと言ってくださいよ。」

拍手

岡田氏「無いと言ったのは、あなただ。無いと言った以上、説明責任があるのはあなただということを申し上げておく。」

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

ここまで聞いて、かなり疲れを感じた。なぜなのか、メモして少し
はっきりしてきた。

「国会という場で、何の根拠もなく、何でも言える人。」

こんな人がこの国のリーダーであることが炙りだされた。

| Till*eulenspiegel | 日本-Japan | 14:20 | comments(0) | trackbacks(0) |

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