Ein Notizbuch 2

人々の言葉を記録し、引き継ぐためのブログ
 
「抵抗権」を学ぶ 6
ドイツ憲法(基本法)20条はこうなっている。


(1) ドイツ連邦共和国は、民主的かつ社会的連邦国家である。

(2) すべての国家権力は、国民より発する。国家権力は、国民により、選挙および投票によって、ならびに立法、執行権および司法の特別の機関を通じて行使される。

(3) 立法は、憲法的秩序に拘束され、執行権および司法は、法律および法に拘束される。

(4) すべてのドイツ人は、この秩序を除去しようと企てる何人に対しても、他の救済手段が存在しないときは、抵抗権を有する。



沈在宇氏の論文 『抵抗権』から

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この4項、「この秩序(自由民主主義憲法秩序)を排除しようと試みるすべての者について、他に救済手段が不可能な場合に、すべてのドイツ国民は抵抗する権利を持つ。」これがドイツ基本法に規定された、

「憲法守護権としての抵抗権」

である。
この抵抗権は、クーデターや革命によって国家権力の作用が排除されている権力真空状態にあって、その簒奪に対応する抵抗権であり、目的は自由民主主義憲法秩序を守護することである。

従って、この抵抗権は暴力に対抗する抵抗権ではない。

抵抗しようとする国民は決して自己の人権や市民権を防御するために抵抗するのではなく、国家緊急権に該当する抵抗権を行使するためである。

憲法体制を簒奪から守護する責任は、本来、国家にあるもので、国民にあるものではない。

いかなる国家憲法も、自己の存立を否認する革命に対し無防備状態でいることはできず、自己存立のための国家緊急権を持っているが、それが不意の奇襲によって緊急権を行使出来ない時、国家に代わって、国民が憲法守護の緊急援助に出てくるよう呼びかけることが、この第20条4項の趣旨である。

この抵抗は、反対権のように、法治国家内に位置するわけではない。
この抵抗は、本来の抵抗権のように、不法国家に位置するのでもない。
この抵抗は、両者の中間に位置する。

すなわち、法治国家憲法が麻痺しているとは言え、まだ不法国家憲法が確立されてはいないからである。

暴政に対抗する抵抗権の保護法益は、直接的に人間の基本権である。
簒奪に対抗する抵抗権の保護法益は、間接的で、人間の基本権を保護する基本秩序である。

この基本秩序を排除する憲法破壊行為に対処することが憲法守護権、ないし、憲法緊急権としての抵抗権である。

この抵抗権は、既存の憲法秩序を守護するためのものであるから、本質からみて保守的なものである。

スラデチェック* は次のように説明している。

「憲法守護権としての抵抗権は、憲法上、革命のように既存の法秩序への攻撃に向けられるのではなく、その防御に向けられるものである。抵抗のモラルは、正当な憲法状態の死滅を防止することである。従って、このモラルは保守的である。抵抗において、既存の憲法状態との関係は肯定的である。

抵抗は憲法を破壊するのではなく、極端的な緊急状況下で、憲法を守護するための最後の手段としてなされる。あらゆる権利のなかの権利(Recht aller Rechte)である。

したがって、暴政にたいする抵抗権が、その本質からみて革命的であるのとは対照的である。


* H.Sladeczek, Zum konstitutionellen Problem des Widerstandes, in: ARSP, Bd.53, 1957, S.370.


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あくまでも既存の自由民主主義憲法秩序を守るための、憲法守護権としての抵抗権。

日本国憲法第99条で、「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負う」はずの首相が、自民党総裁という二枚目の舌を使って、この5月3日の憲法記念日に、一方的に、憲法改正の期日を述べ、与党にその準備を命じた
私は、これは憲法改正とは名ばかりで、憲法排除、簒奪(クーデター)だと思う。これが簒奪でなくてなんだろう。**

権利のなかの権利。憲法守護権としての抵抗権が私たちの憲法にもあったら。ないものねだりをしても仕方がないが、そう強く思う。

講演会で、関西学院大学の教授が、さほど必要ではないような風だったが、この憲法守護権としての抵抗権を是非、憲法改正するなら規定してほしい、と思うがどうだろう。

それにしても、この権利の中の権利をどう行使すれば、憲法は守れるのだろうか。


** そう言えば、安保法制の議論の時、憲法学者の石川健治氏が、2014年7月1日に安倍政権が行った集団的自衛権に関する閣議決定を、「クーデターだ。」と語っていたのを思い出す。だとすると、私たちは、そのクーデターの最中にあると認識すべきではないか。

そう言えば、今年5月4日のSession22で、やはり、石川健治氏は、こう述べていた。今思い起こすと、身震いするほど恐ろしい。

「天皇陛下が、廃位させられたのでなければ、いいのですが。」

天皇のメッセージは、象徴として責務を果たしてきたが、その責務を果たせなくなる前に、その責務が継続して果たせる仕組みを作って欲しい、国民に考えて欲しい、というメッセージだったはず。

憲法の第1条で、「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく。」と書かれているのに、国民の総意などそっちのけに、1回限りの生前退位で片付けた現政権。
象徴としての責務など、あなた限りで結構、と言わんばかり。

「天皇陛下が、廃位させられたのでなければ、いいのですが。」

いや、廃位させられたのだ。おそらく。そうでなければ、今上天皇の
怒り Unmut が表明されるはずがない。Der Spiegel 22 号は、その
83ページで、この怒りについて報道している。

| Till*eulenspiegel | 憲法 - Verfassung | 16:39 | comments(0) | trackbacks(0) |

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