Ein Notizbuch 2

人々の言葉を記録し、引き継ぐためのブログ
 
南北の塔、山雨の塔。
3月20日に札幌で、北海道知事選立候補者石川ともひろ氏の道民集会があり、沖縄県知事玉城デニー氏が行った応援演説を、youtube で聞いた。

半ばを過ぎたころ、玉城氏は語った。

「沖縄と北海道の繋がりについて二つ話させてください。」

一つは昆布。北前船が境まで昆布を運ぶ。薩摩藩が統治していた琉球の砂糖を境に運び、換わりに昆布を薩摩藩経由で琉球に運ぶ。
中国に売るためである。琉球の人々はその一部を食する。

薩摩に虐げられてはいたものの、自分たちの食文化に置き換えていった琉球の人々。

もう一つが沖縄戦。平和の礎いしじ(糸満市摩文仁)に名を刻まれた軍民の数は24万人。終戦後の1946〜47年、糸満市の真栄平(まえひら)の人々が、村に帰ることを許されて村に帰ってみると、そこにはたくさんの遺体(遺骨)があった。多くの遺骨をいったんガマ(洞穴)に安置した後、塚を作り慰霊を行った。その遺骨が移されるという話が持ち上がったが、村人たちは、ここでこそ弔う場所ということで、浄財が寄せられ「南北の塔」ができた。どなたのものかわからないが、(日本の)南から北までの人々の慰霊の塔である。そして、この中には、山部隊(やまぶたい)と呼ばれる、北海道の兵士たちが多くいた。彼らは、寒さに強いので満州に派兵され、その後、沖縄戦に従軍した。実は、沖縄戦で沖縄県民以外で、最も多く亡くなっているのは北海道の方々である。真栄平の人々は、このようにして、平和の尊さを今にしっかりと伝えている。

沖縄と北海道は、食で繋がり、命どぅ宝(ぬちどぅたから)、命こそ宝という絆で繋がっている。

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地図で南北の塔を探したが見つからなかった。もちろんネット上に画像はあった。そして、ウィキペディアでは、山部隊の中に相当数のアイヌ民族の人々がいたことも解った。アイヌ民族の弟子氏と真栄平の人々との縁についても。私は道産子で、小さい頃、近所にアイヌ民族の家族が住んでいた。

地図をあちこち探していて、「山雨(やまあめ)の塔」を見つけた。そして調べた。この塔の側にはクラガー(暗川)ガマ(洞穴)があり、そこは第24師団第89連隊、すなわち山部隊が陣地として使用したガマだった。この近くの宇江城一帯は、日本軍最後の抵抗拠点の一つとなったところ、ということだ。糸満市の公式サイトにはこのように説明書きがある。

「1945年6月28日、壕入り口を米軍が爆破。30日、師団長の雨宮中将がこの壕で自決。軍旗の奉焼も行われた。」

http://www.city.itoman.lg.jp/kankou-navi/docs-kankou/2013022300315/

戦後しばらくたって、元軍人たちにより、この塔は立てられ、山部隊の山、雨宮中将の雨から名づけられということだ。500柱が合祀されている、という。

そして、このクラガーガマにはこのような記述もある。

「住民を追い出したり、食糧を強奪したり、更には住民を虐殺したという証言がある壕でもあります。」

https://www.web-gis.jp/GS_Okinawa-Gama/Itoman-14-sm.html

沖縄戦について知らず、故郷を同じくする兵士たちが多く沖縄で死んだことを知らず、中には少数民族のアイヌの人々がいたことを知らず、守るべき住民を虐殺した部隊があると聞き知ってはいたが、それが山部隊の兵士であったことを知らなかった。











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