Ein Notizbuch 2

人々の言葉を記録し、引き継ぐためのブログ
 
「韓国は敵なのか?」署名お願いします。
和田秀樹教授らが始めた署名運動です。
是非、賛同お願いします。署名お願いします。

https://peace3appeal.jimdo.com

かつて植民地支配した韓国との間に紛争など、決してあってはならないと考えます。共に、この国が平和を求め続けるよう、歩んでゆきましょう。、



| Till*eulenspiegel | 日本-Japan | 18:23 | comments(0) | trackbacks(0) |
種を粉に碾いてはならない - ケーテ・コルビッツ
最近、大学で『ベルリン』について講義をした際、質問してみた。

「種を粉に碾いてはならない」とはどのような意味でしょう。

ある学生が答えてくれた。

 種を粉にしてパンを作ったほうが美味しいのではないですか。

私の咄嗟の返答は、

 そうですね。きっと栄養たっぷりで美味しいでしょう。でも、今度収穫するための種をどうしたらいいでしょう。

 ああ、そうですね。

種は土に植えられ、芽を出し、やがて成長して実り、新たな種となるように、若者の命は世に出て成長し、世代を担い、次世代の礎となる。

学生たちが書いてくれたアンケートの中に、このコルビッツの言葉の反響があり、改めて、過去ログから、ケーテ・コルビッツの画業について投稿したいと思う。


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君はどこにいるの?




愛しい息子

子供の頃はまるで女の子みたいだった、あの優しいペーターが何が何でも戦争に行くという。
これがペーターの最後の写真だ。



そして、ペーターは従軍直後に戦死した。
母であり、ドイツで最も名高い芸術家の一人であるケーテ・コルビッツKäthe Kollwitz は、自分の息子のために碑を刻んだ。ピエタ Pieta である。




Berlin Neue Wache


ケーテ・コルビッツは、一人の母の身に起こり得る最悪の出来事、すなわち、子どもの死を体験した。日記の中で、芸術家はその苦悩について語っている。それは、その苦悩に耐えて生き延びるためである。


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上記は、ドイツ発行で、自称、ヨーロッパ最大級の歴史雑誌という、P.M. HISTORY 2016年1月号 の中の、Thomas Röbke トーマス・レブケ氏による興味深い記事である。

ドイツの、ある程度の都市ならば、どこにでも存在する

「ケーテ・コルビッツ通り」

の名の芸術家が残した日記についての記事だ。

沖縄にある佐喜真美術館に彼女のいくつかの作品が収蔵されている。
まだその作品群を見たことがなく、ベルリンの美術館でも見るチャンスに恵まれず、いつか見たいという気持がつのるばかり。ここ1年、「だれの子どもも殺させない」という言葉と彼女の彫刻とがいつもリンクしていた。
いつか見る時のためにも、彼女の日記からいくつか訳してみたいと思う。

彼女の日記の紹介文には次のように書かれている。

「ドイツの三つの帝国を生き、二つの世界大戦を生きた、ケーテ・コルビッツの35年間にわたる日記は、ドイツ史の激動のエポックを記しているのみならず、革命の熱狂から批判的冷静さを取り戻すまでの政治的立場の変遷をも包括するものである。

とりわけ、驚くほど飾り気のない、しかし的確な表現で、これらの日記が描き出すのは、母であり芸術家である一人の女性の、不安と疑念、そして、苦悩と希望である。」

Käthe Kollwitz Die Tagebücher 1908〜1943

『ケーテ・コルビッツ 日記 1908〜1943』2012年

画像は P.M.HISTORY 1月号から。

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画家、版画家、そして彫刻家であったケーテ・コルビッツは1867年〜1945年を生きた。彼女の作品が創りだしたのは、表現主義と写実主義の間に位置する独自のスタイルだった。1891年、彼女は医者であったカール・コルビッツと結婚し、夫とともに、ベルリンのプレンツラウアー・ベルク地区バイセンブルガ―通りに居を移した。現在この通りは、コルビッツ通りと呼ばれている。1892年、彼女は、息子のハンスを出産。4年後に次男のペーターを、愛くるしい男の子を出産した。ペーターは、母と同様に画家を目指していた。

戦争がやってきた時、息子たちは二人ともすぐに戦争に志願した。ペーター・コルビッツは、戦場に来てまだ一週間にもなっていなかった、1914年10月23日の夜にフランドルのディスクムイデ近郊で死んだ。18歳だった。


ケーテ・コルビッツにとって、このことは「中間休止、区切り」を意味した。なんとか彼女が造形創作に再びとりかかることができたのは、亡くなった息子のために碑を創ろうという強い願望に急き立てられた時だった。

後に孫娘のユッタ・ボーンケ・コルビッツが日記の前書きに書いているように、

「彼女は、17年という長い間、様々に変転する構想、常に新たに取り掛かるものの続かない創作、疑念と抑圧とほんのわずかな信念しか得られない状態と悪戦苦闘する。」

「それは、1932年、息子が埋葬されている兵士の墓地に、ようやく、あの悲しみに沈む両親の像が設置される時まで続く。」



画像は Wikipedia から。


この長い年月、ケーテ・コルビッツは自分の日々の考え、感情を、文字で書き留めていた。第一次世界大戦の最中でも。以下、いくつかを抜粋する。


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1914年10月30日 「貴方のご子息は戦死しました。」

1914年11月14日
ペーターの去年の日記を読むといつも、一人ぼっちで置き去りにされた気持ちになる。できることなら、若者たちのために、私たちが死にたかったのに、それなのに置き去りにされて、誰もが一人ぼっちだ。まるで、息の吸えない真空に取り囲まれているように一人ぼっちだ。君はどこにいるのか?どこを彷徨っているのか?なぜ君は私のところへ来ないのか?君が生きていた時よりもずっとずっと寂しい。もうハンスしかいない。

1914年12月1日
夜、ペーターのために碑を創ろうという構想が浮かんだが、また諦めてしまった。創り果せるとは思えなかった。朝になって、突然ライケを通じて、自分に場所を提供してくれるよう、市に頼めるかもしれないという考えが浮かんだ。もし、お金がかかるなら、かき集めなければならないだろう。
碑はハーフェル川を見晴らせる場所で、旅館シルドホルンの高さに建立されなくては。素晴らしい夏のうちには完成して、除幕式が行われるはずだ。


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訳者注

die Zäsur「中間休止、区切り」とは、

詩学上の専門用語で「詩の行の中間での、特に意味の切れによる休止」を表し、読者にインパクトを与える手法である。また、

音楽上の専門用語で「楽節中の中間休止や、動機や主題の切れ目」を意味する手法でもある。


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1914年12月4日
私は君を記念碑で讃えたい。君を愛してくれた人達みんなが心のなかで
君を覚えてくれているし、これからも、君が、君を知っていた人達や、
君の死を聞いた人達に影響を及ぼしてゆくだろう。けれども、私は
もっと別の方法で君を讃えたい。君たちの死、若くて自ら戦争に志願した
君たち全員の死を、私は、君の姿で具現化したい。鉄とブロンズの
中へと、その死は鋳込まれて、そうして、何百年も存在し続ける。

1914年12月9日
私の息子!君の記念碑の上では、私は、君の姿を両親の上に
置きたい。君は手足を伸ばして寝そべっていてほしい、必死な呼びかけに
両手が答えて言う。「ぼくはここだよ。」目は、おそらく、
大きく開いたまま、だから、君は君の上に広がる青空を見れるし、
雲も鳥たちも見れる。口は微笑むようにしよう。胸には、私が君に
あげたナデシコを飾ろう。

1914年12月23日
去年のクリスマス、君はピエロの衣装を着た。今年のクリスマス、
君は腕に小銃を持って大地の下で固くなって横たわっている。

1914年12月24日
クリスマスイブ。.....君のベッドの後ろには、一本の低い若木を
置いてある。ロウソクの炎が次から次へと燃えていって、その後で、
再た、真っ暗になってしまった。

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 彼女は何百年も存在し続ける彫刻を創ろうとする。なぜなら、
 最も尊いものが破壊されてしまったからだ。それは、若者の生命。


                        トーマス・レブケ




| Till*eulenspiegel | 反戦-gegen den Krieg | 12:05 | comments(0) | trackbacks(0) |
西宮こしき岩アスベスト裁判  判決
昨日4月16日、判決が出ました。
テレビでも報道され、また毎日新聞でも大島記者が報告してくださっているようです。こちらでは、許可を得て、担当弁護士からいただいた判決概要を掲載いたします。


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【結論】 原告の請求をいずれも棄却という結果で損害賠償責任はどの被告に対しても認められませんでした。

【理由】 私たちの主張を一定認める判断をしました。

.▲好戰好抜淪建材の存在について
設計図書の調査結果を認め、除去記録等がないことから、相当量のアスベストが解体工事時点で残存していたと認めました。

▲▲好戰好箸糧散
一定量のアスベストが周辺環境に飛散したことは認めました。

2鯊龍伴圓寮嫻
基準通りに工事を行わなかった違法があり、損害があれば、責任は認められるという判断をしました。

せ業主の責任
改正前大気汚染防止法のもとでは、解体業者が工事に責任を持つことが前提となっているとして、注文者の義務違反をみとめませんでした。

ダ承椹圓寮嫻
結論としては、違法とまでは言えないと判断しました。
しかし、大気汚染防止法や県の条例上、西宮市の規制権限及び調査権限は、建築物等の解体工事等において石綿が飛散することにより、周辺住民の生命、身体に被害が発生するのを防止し、その健康確保することを主要な目的にし、積極的な調査義務が無いということはないとして、積極的調査義務を認めました。

その上で、裁判所は、

1 西宮市は、レベル1建材が実際に残存しており、アスベスト全盛期の建物であることから、他にもアスベストが残存していることは容易に疑うことができた。
2 西宮市の職員は、設計図書を容易に入手することができた。
3 西宮市は解体事業者の調査能力について一定の疑問を抱くべきであった
4 西宮市は、解体事業者に設計図書に基づいて調査したか否かの報告を求めていれば、解体事業者が調査を怠っていた事実を知ることができるとともに、設計図書の提出を受けて、自ら石綿含有建材が残存しているか否かを確認することができた。

と認定し、西宮市の対応は、大気汚染防止法及び環境保全条例の趣旨に十分に即した妥当なものであったと断ずることはできないとして、西宮市の対応が不十分であったことは認めました。
ただし、測定結果で示す数値は高くなく、西宮市の対応が、原告らとの関係で許容限度を逸脱して著しく合理性を欠いたということはできないと判断しました。

β山欧砲弔い
測定結果で、具体的な数値が出ていないことをもとに、社会生活上受任すべき限度を超える程度に至っているとはいえないと判断をしました。


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以上が判決概要です。

裁判所は、西宮市の不作為を認めました。しかし、証人として尋問も受けた、中皮腫・じん肺・アスベストセンターの永倉氏が行ったアスベスト飛散量は高かったにもかかわらず、「数値は高くない」とし、原告の訴えは棄却しました。その背景にあるのは、20年〜30年、あるいは40年とも言われる潜伏期間の長さです。裁判所は潜伏期間を利用したのです。

しかし、こうは考えられないでしょうか。現在、中皮腫で亡くなっている人々は、日本だけでも年間1500人を越えています。その人々こそ、20年、30年前に、この判決と同様の、人々の不当な判断が原因となって、今発症したのだと、そう考えられないでしょうか。山口裁判長の判決は、過去の不当な判断と同等なのだと。ですから、このように言いたい。

「あなたの不当な判決によって、今現在、多くの人々が中皮腫を発症し亡くなっている。」

甑岩町のここは小学校、中学校そして高校へと通う子供たちの通学路。20年、30年後に、もしこの通学路を通っていた子どもたちが万が一中皮腫になったら、損害賠償の権利が得られるように、それがこの裁判の一つの大きな目的だったのです。


参照:厚生労働省、都道府県(21大都市再掲)別にみた中皮腫による死亡数の年次推移(平成7年〜27年) 人口動態統計(確定数)より

https://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/jinkou/tokusyu/chuuhisyu15/dl/chuuhisyu.pdf


| Till*eulenspiegel | アスベスト−Asbest | 19:59 | comments(0) | trackbacks(0) |
南北の塔、山雨の塔。
3月20日に札幌で、北海道知事選立候補者石川ともひろ氏の道民集会があり、沖縄県知事玉城デニー氏が行った応援演説を、youtube で聞いた。

半ばを過ぎたころ、玉城氏は語った。

「沖縄と北海道の繋がりについて二つ話させてください。」

一つは昆布。北前船が境まで昆布を運ぶ。薩摩藩が統治していた琉球の砂糖を境に運び、換わりに昆布を薩摩藩経由で琉球に運ぶ。
中国に売るためである。琉球の人々はその一部を食する。

薩摩に虐げられてはいたものの、自分たちの食文化に置き換えていった琉球の人々。

もう一つが沖縄戦。平和の礎いしじ(糸満市摩文仁)に名を刻まれた軍民の数は24万人。終戦後の1946〜47年、糸満市の真栄平(まえひら)の人々が、村に帰ることを許されて村に帰ってみると、そこにはたくさんの遺体(遺骨)があった。多くの遺骨をいったんガマ(洞穴)に安置した後、塚を作り慰霊を行った。その遺骨が移されるという話が持ち上がったが、村人たちは、ここでこそ弔う場所ということで、浄財が寄せられ「南北の塔」ができた。どなたのものかわからないが、(日本の)南から北までの人々の慰霊の塔である。そして、この中には、山部隊(やまぶたい)と呼ばれる、北海道の兵士たちが多くいた。彼らは、寒さに強いので満州に派兵され、その後、沖縄戦に従軍した。実は、沖縄戦で沖縄県民以外で、最も多く亡くなっているのは北海道の方々である。真栄平の人々は、このようにして、平和の尊さを今にしっかりと伝えている。

沖縄と北海道は、食で繋がり、命どぅ宝(ぬちどぅたから)、命こそ宝という絆で繋がっている。

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地図で南北の塔を探したが見つからなかった。もちろんネット上に画像はあった。そして、ウィキペディアでは、山部隊の中に相当数のアイヌ民族の人々がいたことも解った。アイヌ民族の弟子氏と真栄平の人々との縁についても。私は道産子で、小さい頃、近所にアイヌ民族の家族が住んでいた。

地図をあちこち探していて、「山雨(やまあめ)の塔」を見つけた。そして調べた。この塔の側にはクラガー(暗川)ガマ(洞穴)があり、そこは第24師団第89連隊、すなわち山部隊が陣地として使用したガマだった。この近くの宇江城一帯は、日本軍最後の抵抗拠点の一つとなったところ、ということだ。糸満市の公式サイトにはこのように説明書きがある。

「1945年6月28日、壕入り口を米軍が爆破。30日、師団長の雨宮中将がこの壕で自決。軍旗の奉焼も行われた。」

http://www.city.itoman.lg.jp/kankou-navi/docs-kankou/2013022300315/

戦後しばらくたって、元軍人たちにより、この塔は立てられ、山部隊の山、雨宮中将の雨から名づけられということだ。500柱が合祀されている、という。

そして、このクラガーガマにはこのような記述もある。

「住民を追い出したり、食糧を強奪したり、更には住民を虐殺したという証言がある壕でもあります。」

https://www.web-gis.jp/GS_Okinawa-Gama/Itoman-14-sm.html

沖縄戦について知らず、故郷を同じくする兵士たちが多く沖縄で死んだことを知らず、中には少数民族のアイヌの人々がいたことを知らず、守るべき住民を虐殺した部隊があると聞き知ってはいたが、それが山部隊の兵士であったことを知らなかった。











| Till*eulenspiegel | 反戦-gegen den Krieg | 02:55 | comments(0) | trackbacks(0) |
次回国民審査対象の裁判官
一人一票実現会議からリーフレット"One for One Times" が届きました。切り抜き国民審査が拡散されましたので、こちらでも掲載します。

宮崎裕子裁判官は、2018年12月、個別意見を書かれた裁判官です。



国民審査のバッテンで、一人一票を実現しましょう。
次回衆議院選挙直前に再び拡散します。切り抜きを持って投票に行きましょう
| Till*eulenspiegel | 日本-Japan | 01:32 | comments(0) | trackbacks(0) |
Ein Notizbuch 1 から Nr.4
2014年2月18日付けの投稿

フランスとドイツの和解1-2

アウシュビッツの悲劇を知っていても、オラドゥールの悲劇について知るにつけ、言葉を失い、なかなか先へ進めなかった。
恥ずかしいことに、自分はこの悲劇について全く知らなかった。
(この悲劇は、ウィキなどさまざまなサイトで報告されています)

1月1日の記事の後半は、この虐殺を指揮したナチス親衛隊の一人ハインツ・バート中尉の戦後についての報告である。 以下、記事の抜粋。


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ハインツ・バートは、1981年に戦犯として逮捕されるまで、オラドゥールから遠く離れた旧東独のベルリンの北の町、グランゼーに身を隠していた。

生前を知るシュミトケ牧師の証言。 「町の人は誰も過去を知らなかった。
国営雑貨店で働き、愛想が良く、誰からも慕われていた。」

裁判でのバートの証言。 「あれは戦争だった。仕方ない。」

終身刑判決後の1997年、体調不良を理由に釈放され、グランゼーに戻る。

息子二人とも誰とも付き合いを絶ち、死を迎えて、シュミトケ牧師に語った。

「私のような者も埋葬してもらえますか。」 牧師がうなずくと、「匿名の埋葬にしてほしい。極右ネオナチらが墓を聖地化しないように。愚か者は我々だけで十分です。」

現在、虐殺の生存者はエブラスさんを含め2人。記念館の依頼で廃墟を歩き訪問客に当時の体験を説明するエブラスさんの言葉。

「今の若いドイツ人に責任はない。ただ、悲劇が忘れ去られないよう、私は死ぬまで語り続ける。」

領土を巡る争いが生んだ悲劇は今なおその傷痕を残すが、人々は過去と向き合い、未来へと歩み続けている。

フランスとドイツの和解1−3に続く


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オラドゥールで、広島で、姉妹都市イギリスのコヴェントリーで、ドイツのドレスデンで、戦争に勝っても負けても、犠牲となった多くの町や村で、このように語り続ける人々がいることに感謝します。

次回はアルザス・ロレーヌ争奪戦を、記事にならい年表形式で報告。

ウィキなどによれば、アルザス・ロレーヌ地方はもともと神聖ローマ帝国の一部だったが、17世紀から18世紀にかけ、フランス王国に占領されることとなった。
以下、記事の抜粋。


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フランスとドイツの和解1-3

その後
1871年  プロイセン(ドイツ)が普仏戦争で勝利し、鉱物資源が豊富な
     アルザス・ロレーヌ地方を獲得

1919年  第一次大戦に勝利したフランスが奪還

1923年  フランスが工業地帯のドイツ西部ルール地方を占領
     (1925年まで)

1940年  第二次大戦でドイツ軍がパリ占領、再びアルザス・ロレーヌを支配

1945年  ドイツ降伏

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昔から領土紛争にさらされてきたこの地方に平穏をもたらすきっかけとなった
のは、1950年5月9日フランス外相シューマンが資源の共同管理を提唱したことだった。
これはシューマン宣言と呼ばれ、この日は後にヨーロッパ・ディと呼ばれる。

以下、記事の抜粋。

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1952年  資源をフランス・西ドイツなど6カ国で管理する欧州石炭鉄鋼共同体
     (ECSC)発足

1963年  独仏友好条約 (エリゼ条約)調印


この後、ベルリンの壁崩壊、東西ドイツ統一を経て、この ECSC が EU 欧州連合(1993年)に発展してゆく。


1995年には、シェンゲン協定で、独仏などで国境の旅券審査廃止、
2002年には、欧州共通通貨ユーロ流通開始
2003年には、独仏が米英主導のイラク戦争反対
2013年には、エリゼ条約50周年

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アルザス・ロレーヌを巡って両国が争うことはもうあってはならないという決意がここにあると思う。


| Till*eulenspiegel | 世界−die Welt | 11:30 | - | - |
Ein Notizbuch 1 から Nr.3

<共感の技法>についていろいろと思いめぐらす。
政治についてだけではなく、単に映画一つをとっても、自分が感動した映画を他の人々に伝えようとするとき、それが親でも、配偶者でも難しい。

<共感の技法>は、果たして在りうるのだろうか。

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2014年2月18日付けの投稿

フランスとドイツの和解1-1


以前友人から質問を受けた。
「戦後、ドイツは近隣諸国とうまくやっているのに、なぜ日本はうまくやれないのか。ドイツも、明確に謝罪したわけではないのではないか。」

それに対し、自分の答え。
「戦後、ブラント首相がワルシャワ・ゲットーの記念碑の前で正式に謝罪してるよ。」

改めて、ウィキでそのことを読むと、その行動の大きさに感動するが、友人の問に対し、自分の答えは、ドイツを学ぶ者として恥ずかしい。

そんな気持ちを抱えていたところ、NHKのニュース番組で、先月22日が独仏友好条約(エリゼ条約)締結50周年ということで、ドイツとフランスの若者たちが共に、それぞれの言語を自在に混ぜて、ラップに載せ、メッセージを発信していることを伝えていた。

司会者は、若者が活動の主役であることに意義があると述べていたが、それは、少し違っている。 政治家ではない大人たちが和解の行動を少しずつ起こしていたからこそ、それが若者たちに繋がったのだ。

それを証明する事実として以下のレポートを読んで欲しい。


エリゼ条約締結50周年ということで、日本と近隣諸国との問題を考えるヒントとして、毎日新聞の1月1日朝刊から7日まで、『 領土と主権 第一部 独仏和解の現場から 』 というタイトルで両国の戦後の和解の達成、未だ続く対立の克服について書かれていた。

友人への返答の代わりとして、日本に何が欠如していたか、今でも欠如しているか、考えるヒントになれば、とまとめることにする。

毎日新聞1月1日付朝刊  連載のタイトルは

フランス中部の村  ナチの虐殺に同胞協力


フランスとドイツの国境に位置するアルザス・ロレーヌ地方、その主権を巡ってフランスとドイツが争ってきたことは、歴史でも学んだ。
鉱物資源の産地だからだ。 以下、記事の抜粋。

オラドゥール(仏中部)宮川裕章記者、グランゼー(独東部)篠田航一記者

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今から69年前の1944年6月10日、ハインツ・バート中尉率いるナチス親衛隊120人がフランス中部オラドゥール村を襲撃。住民全人口に近い642人を虐殺。生存者は6人。

理由は、ドイツ側資料によると、村民が武器を隠しているとの誤情報。

廃墟はフランス政府がそのまま史料として残すことを決定。
現在もがれきがそのまま残っている。

そして、その部隊の中に、当時ドイツ領アルザス地方出身の「マルグレ・ヌ」(自らの意思に反して)と呼ばれるナチスに強制徴用されたフランス人が13人いたのだ。

1953年、13人は有罪判決の後、恩赦で釈放されたことで、禍根を残す。

和解の象徴としてアルザス、ストラスブール市から贈られた彫像が破壊されたり、他方、生存者の一人エブラス氏が自らの書物の中で、13人が強制徴用であることを疑うような表現をしたため、アルザス住民が訴訟を起こしたり。

そんな中、互の首長の相互訪問など、地域間の交流を続けてきた。

たとへば、1999年オラドゥール村にできた虐殺記念館を訪れる年間15万人以上の来館者のうちドイツ人は500〜1000人と少ない。
事件の風化を防ぐため、記念館では約5年前から、ドイツの中高生を招く事業を始めた。

フランスとドイツの和解1−2に続く


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フランス、ドイツによるアルザス・ロレーヌ争奪戦はすさまじい。

友人の話では、ストラスブールのクリスマス市は、まさにドイツのクリスマス市なのだという。そのような地方に生まれること自体、困難な状況にさらされることを意味する。
| Till*eulenspiegel | 世界−die Welt | 11:28 | comments(0) | trackbacks(0) |

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